デヴィッド・ボウイ

定価: ¥ 4,935
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発売日: 2000-10-18
発売元: ポニーキャニオン
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うむうむ!
さて、大島渚にとって本作品は傑作だろうか?デビットボウイ、坂本龍一、ビートだけしの共演が話題になったが、カンヌ映画祭では今村昌平「楢山節考」に負けてしまった。やはり大島渚は「儀式」「飼育」などの問題作品こそが、世界に提言できるメッセージではないだろうか?本作品における半戦争メッセージは薄い。増村保造「赤い天使」、サムペキンパー「戦争のはらわた」位のインパクトが欲しかった。
「異なる文化」へのまなざしと受容
この「戦場のメリークリスマス」は私が中学生の時にみた記憶がある。当時は坂本龍一の音楽への関心から足を映画館に運んだのだが、熱帯の重たい空気感とフィルムの色彩、音楽の美しさが印象的であった。ほぼ20年経過した今、改めて観直してみたが、多分に今日的な主題を持つ映画であると感じた。
本作は太平洋戦争末期における熱帯の島の捕虜収容所という閉鎖的な環境が舞台だが、そこでは過酷な戦争という環境において異なる文化的価値観(例えば、西洋と日本、キリスト教と国家神道、それらを背景としたセリアズの「罪」の意識とヨノイの「恥」の意識)を持った人々との対峙と葛藤が描かれている。この映画が優れているのは、その音楽や映像の美しさに加え、悲しい結果にもかかわらず異文化への理解を予感させるエンディングとなっている点であり、それを男女の愛情という月並みな枠組みに落とし込むのでなく、「文化の異質さと受容そのもの」を純粋に浮上させんがために、逆説的に戦争という価値観がぶつかりあうリアルな場とホモセクシャルな同性同士の交流が選択されたのではないかとさえ思える。この互いが異なる文化に立脚していても、それでも理解と受容は可能なのだというテーマはまさに今日的だ。
現在、日本では太平洋戦争時の映画が数多く制作されるようになっているが、同様に戦時中が舞台となっている「戦場のメリークリスマス」との質や内容の隔たりはどうであろう。昨今の戦争映画にお決まりの「愛するモノの為に死す」という構図の陳腐さについてはコメントしようもないが、問題なのはそういった構図の映画を受容する現在の日本の文化状況だ。その傾向に不安を感じるのは私だけではないだろう。おそらく現在、必要なのは「同質の文化」の称揚ではなく、まさに、本作「戦場のメリークリスマス」で描かれているような「異なる文化」へのまなざしと受容であるというのに。
正しさというもの
多くの人は、自分は善い人間であると考えて生きているだろう。
もちろん、いつも善いことだけを考えたりおこなったりは出来ないまでも
自分は基本的には善で、正しいことをしているつもりだし
もしも何か悪いことをするとしたら、それをさせる「誰か」や
「何か」もまた悪いのだ、と心のどこかで思ってはいないだろうか。
自分が正しいと思わなければやっていられない、というのも現実ではあるけれど
それならば「正しい自分」の敵は常に間違っているのだろうか。
もし敵が善であり正しいとすれば、自分が悪で誤りなのだろうか。
物事の善悪を分けることは、そんなに簡単ではない。簡単であってはならない。
当たり前のことだけれど、ヨノイ大尉もセリアズもローレンスもハラ軍曹も
それぞれの過去とそれぞれの正義を持ち、それぞれの人生を生きている。
彼ら各々の信じる正義がぶつかり合うさま、葛藤を引き起こす様子、
交差してひととき絡み合う人生の陰影が、積み上げられたエピソードから
鮮明に立ちのぼり、湿度を帯びた亜熱帯の熱い空気のように観る者を包んでいく。
彼らは自らの過去や他者や、その向こうに広がる世界を僅かずつ受け入れていく
(或いは、受け入れる場所を自分の中に見つけ出す)けれど、結局は
自己の信念や正義から出た行動を他者に裁かれて命を落とすのだ。
生き残ったローレンスの「正しい者などどこにもいない」という言葉は重い。
正義は厄介だ。けれど自分の正義を信じられないことは哀しい。
たけし扮するハラ軍曹はラストシーンの笑顔で、その厄介さと哀しみを具現して見せた。